2015年

11月

13日

望まない「助け」を届けようとすることの罪 真の優しさについて

これは、もしかして、私以外の人は、みんな知ってるかもしれない事なんだけど、

私は最近、友達に気付かせてもらって、いろんなことが一つにつながって

とても腑に落ちたことなので、書いておこうと思います。


わかってる人には、

「いまさら何言ってるのー?」

な内容なんでしょうけど、私には世紀の大発見だったので。

さて。

ここのところ、立て続けにこんなことがありました。


・大好きな友達が、心を病んでしまった


・「近所で評判の手を焼く悪ガキが、実は支援の必要な子だったのに気付かなくて、

支援級に移った話を聞いてからそのことを知り、心が痛かった」

という話を友達から聞いた


・ちび同士の仲間うちで、いつも2対1、または、多対1になってやられてしまう「1」の当事者の母ちゃんが

「仲裁に入りたい、でも、それをすることが、この子の拒否する力を奪うことになるのではないか」

と葛藤して、心を痛めている話を聞いた



上にあげたような出来事に遭遇する場合、たいてい、そんな話は親しい友人からの伝聞で知るわけですから、まず思うのは「なんとかしてあげたい」なんですね。


人並みの「他者を思いやる心」を持っていれば、できるできないはともかくとして、何とか役に立てることはないかな?と、だれしも一度は思うでしょう。


が、実際にそこですぐに行動に移して、解決できる人というのは、漫画の世界にしかいないと思います。

なぜなら、それは「他人の問題」だからです。

自分が解決できるのは「自分の問題」だけです。

どれだけ素晴らしいノウハウや理論や実行力や人脈を持っていても、それは、他人の問題を根本から解決できることにはつながりません。


ある問題について、自分のこととして向き合い、長くそのことを考え続けてきた人は、

「専門家」として困っている人の相談に乗ることで有益なアドバイスを送ることはできるかもしれませんが、問題の解決はできません。

自分で解決しようと思わない限り、その人を囲む状況は動いていかないからです。


つまり、いちばん大事なのは、当事者の「解決したいという気持ち」なんですね。

それがあって、初めて「助けて」が言える。

「助けて」は、「解決したい」という決意の表明なのです。


上の三つの問題の場合。


最初の「心を病んだ友人」の話は、直接本人から聞きました。

私は反射的に「何とかしてあげたい」と思い、自分のできそうなことを提案してみたり、カウンセラーの友人に相談してみたりしました。


が、彼女は「つらい」という気持ちを吐露してくれただけで、私に救いを求めてはいませんでした。

吐き出したかっただけで、何とかしてほしいとは思っていなかったのでしょう。

何とかするのは自分だ、とわかっていたのだと思います。


私のしたことは、典型的な「余計なお世話」です。

そのことを、カウンセラーの友人に指摘してもらって、初めて気づきました。

あまりにすとんと落ちた言葉だったので、そのまま引用してみます。


”回りが助けられるのは、本人が「助けて」と手を差し出してきた時だけだと思うんだよね。


それまでは、何をしても無駄になるときが多い。


逆効果になって、助けてくれると言ってる人に対して遠慮したり、感謝を述べ続けたり、

助けたいと思っている人の期待にも応えようとして、「助けさせて」あげようとしたりする可能性もあるんだ。


彼女が望めば私はカウンセリングやるのはいいけど、


本人が現状変えたくないと思ってるなら、私は「敵」になっちゃう。”



最後が、すごいと思いませんか?


「助けて」という意思表示は、「この状態を自分で変えたい、だからできないところを手伝ってほしい」という事なのだと思うのですが、


その意思表明が無い場合は、「この状態について、いろいろ不満はあるけれど、根本的なところを変えたいとは思っていない」、だから、「変えようとする人は、私にストレスを与える敵」なんですね。


うわー。知らなかった。危うく、大好きな友達に敵認定されるところでした。


そして、二つ目の場合。


このことをもうちょっと詳しく書くと、私の友達は、

近所で評判の悪ガキくんが、自宅近くの駐車場でサッカーの練習をしているのを目撃し、車にぶち当てたら、とんでもなく叱られるだろうし、修理代請求なんかされたら大変だと思って、何度か注意してあげたのだそうです。


でも、何回言っても伝わらない。


最後は、かなりきつく注意して帰らせたんだけど、ずっとそのことが引っかかっていて、あとから彼が支援級に移った話を聞いて、

「ああ、見た目にはわからなかったけれど、発達障害があったんだなあ、じゃあ、私の叱り方も全く響いてなかったんだな」って思ったって。


そして、その彼のお母さんもかなり変わった人で、

「そんな大事な車なら、外に置いとくな」と言っちゃうような人なので、

ご近所さんは「親がああだから、子どももこうなんだ」と冷ややかな目で見るくらいで、彼に支援が必要だという視点で見ることができていなかった、と。


「住みにくい世の中になったなあ」って、結ばれていたけれど、気付かなかった彼女自身を責めているようにも、私には思えたのでした。


このことについては、私が障害を持つ人の人権について、最近 考えていたこともあり、「望まない支援は、人権侵害に当たることもある」と、さらりと思えました。


どういうことかというと。


たとえば、乙武さんは、義足や義手を必要としていません。

が、私たち、手や足がある人間は、

「手や足が無いのって、不便だろうなー。自分の手足でいろんなことができたら、うれしいだろうなー」

と「自分にとっての便利」「自分にとっての喜ばしい事」を基準に考えてしまい、必要のない人に義手義足を与えてあげたくなる。


でも、それを本人が望まない限り、その押しつけは「支援」ではなく「余計なお世話」ですよね。

望む方向とは違う方向に捻じ曲げらることすらあるわけですから。

そうなってしまうと、それは立派な人権侵害。

だから、支援の第一歩は、とにかく当事者の気持ちを聞くことなんですって。

どうしてほしいのか、何が必要なのか。


先の男の子と、お母さんも、内心はともかく、表面的には、支援を求めていなかったからこそ、支援のネットワークから零れ落ちてきていたのでしょう。

「助けて」が言えるような環境になかったのかもしれないし、それまでの世間からのちくちくビームにとっても傷ついて、誰のことも信用できなくなっていたのかもしれない。


でも、やっぱり、望んだところにしか手を差し伸べることができないのですね、周り、特に公的な機関は。


じゃあ、周りの人には何ができるのか、本当にあたたかい社会って、どういう社会なのかってことについては、最後に書きたいと思うので、もう少し我慢してお付き合いください。

三つ目の場合。


これは、本人から直接聞いたわけではなく、周りの母ちゃんからの伝聞なので、

どれほど正確に伝わっているのかは、ちょっとわからないのですが、

本能むき出しの小さい人たちを母ちゃんが自分で育てている場では、ありがちなことかと思います。


「自由にのびのび」という共通の思いに共感して集まってきた仲間の中では、

「自由にのびのびさせたい」自分と、

「のびのびさせた結果、わが子に不利益が集中することになった場合、それをどう考えたらいいのか葛藤する」自分がいるのは

当たり前ともいえましょう。

子どもは成長するあいだに、やられる側とやる側と両方を経験して大きくなるものでしょうから、

一年前の「やられる側の母ちゃん」の気持ちと、今の「やる側の母ちゃんの気持ち」と両方を経験できるのは、母ちゃんの成長にもとっても役に立つことだと思うのです。


が、事はそんなに簡単にはすまない。


だって、子どもは本能のままに生きてるけど、母ちゃんは良識と、常識と、子どもの監督責任を負って生きているから。

さらにいうなら、仲間に対する思いやりも十分に持っているわけですしね。


「仲裁に入りたい」と思う母ちゃんの気持ちを聞けば、「そうだよね、やられる一方では子どももつらいだろうし、見てる母ちゃんもつらいよね」と共感する。

「でも、それがこの子の拒否する力を奪ってきたのかも」と言われれば、「そうなのかな、でも、やっちゃううちの子だって悪いわけだし」と一緒に悩む。


で、答えは出なくて、みんなしてあーでもない、こーでもないと対応を考えちゃうんですね。


でも、ここで考えなくちゃいけないのは、いちばんは、当事者である子どもの気持ちかなって思うんです。

まだ、ちびだから、本当の気持ちは聞き出すのがとっても難しいのですが。

母ちゃんフィルターは、母ちゃんの生い立ちを通してできているから、自分の経験に重ね合わせて、子どもの経験を再構成して物語を作ってしまうところもあるしね。


だからこそ、また、出てくるキーワードが「助けてって言ってるか」というところなんですね。


「いやいや、この子は、周りに合わせてしまうところがあるので、周り中が楽しそうにしている中で、自分が嫌だと思っても「助けて」なんて言えないんです」


三歳児と言えども、周りの気持ちを忖度する感情は持ち合わせていると思うので、確かに、これはあるかもしれません。

そうなると、母ちゃんとしては、私が代わりに「助けて」を伝えてあげるべきなのか、いやいや、やられるに任せて、この子の「助けて」が出てくるまで待つべきなのかと、思い悩む。


あのね。

子どもの生きる力を低く見積もりすぎてるかもよ、と思います。


「周りを忖度する感情」は確かにあるかもしれないし、その場では表現できない子もいるでしょう。でも、帰ってからの子どもの様子はどうだったかな?


楽しそうだった?

「もう行きたくない」って、言ってた?

「あそこに行くといじわるばかりされるから、僕はもう行きたくない」って訴えた?


それが無いなら、その子は大丈夫。

嫌なことだってあるけれど、十分楽しいところだと思って過ごしているんだと思います。

「助けて、僕はここにいたくない!」とは決して思っていない。


逆に、「もういやだ、行きたくない」っていうなら、そこはスパッと縁を切って、違う世界を見つけるのがいいと思うのです。

それがお互いのためってものでしょう。


お互い、自分が好きだ、心地よい、と思うものを変えるのは難しいからね。


それはそれとして、もっと大事なのは、母ちゃんが、自分に「どうしたい?」って聞いてあげることです。

そして、出てきた答えが、自分の頭で考えた理想と違っても、ねじふせようとしない事です。

だって、それが「やりたい」ってことなんだもん。

周りはそれを尊重します。


「助け」がいるなら、いくらでも力を貸すし。できることは協力する!それは絶対。



でね。


この三つの出来事から思ったのは。


本当に優しいっていうのは、頼まれもしないのにあれこれと、手を変え品を変え「こうしたらいいんじゃない?」を提示することではなくて、


本人が言ってくるまで、じっと、隣で待っていることなんじゃないかと思ったんです。


これだけ人づきあいが希薄で、お互いのことに全く干渉せず、隣で困っている人が居ても「知りませんでした」が通用する今の社会に暮らしていると、


昔の日本的なムラ社会を懐古して、理想化して、「人のつながりが生きていた良い時代だった」みたいに、つい思ってしまいがちなのですが。


おそらく、昔のそういう社会では、本人の望まぬことが「これがお前のためなのだ」と押し付けられることが大量にあったんだと思います。


その結果として、うまく回ることもあれば、破たんすることもあり、決して「ムラ社会ならみんなが幸せ」ってわけではなかったんだと思う。


となると、「こうしてほしい」と主張した時に、それがかなえられるような仕組みが整っている方が、絶対、後から後悔がないぶん、幸せに近づける気がするのですよ。


失敗はもちろんあるかもしれないけれど、それでも、自分が選んだことができるわけですから。



だから、基本、おせっかいで、いろいろと自分がいいと思ったことをあちこちですすめてしまって、気持ちの負担をかけまくっていることも多い私なのですが、


親しい友人にこそ

本人が言ってくるまで待つこと、と、言われないことをしない、を座右の銘に掲げて生きていこうと思ったのでありました。


出来る、できないは、また別の話で。

身に着いた悪い思考のループがそんなに簡単に変わるとも思えないのだけど、でも、それを心掛けていきたいと思います。


だからね、待ってるから。


関心が無いわけじゃなくて、そっぽ向いてるわけじゃなくて、尊重したいと思って何も言わないけれど、

助けが必要ならいつでも、手を貸すから。


自分でやりたいと思うことを見極めて、自信が無くても、ぐらぐらしてても、これだと思うことを、伝えてください。

それが自分の人生を生きるってことだから。


待ってるからね。

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